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監督として橋本総業HDを日本一へ導いた杉山記一が目指すテニス選手のセカンドステージとは――(後編)

2020.08.07|17:00|投稿者: 岡田洋介
監督として橋本総業HDを日本一へ導いた杉山記一が目指すテニス選手のセカンドステージとは――(後編)

2020年2月、橋本総業ホールディングス(以下橋本総業HD)は日本リーグ決勝で3連覇を目指す三菱電機を下し、チーム発足3年目で実業団チームの日本一となった。そのチームを監督として率いた杉山記一は現在42歳。現役引退後は母校である早稲田大学大学院に進み、スポーツビジネスを研究した。異色の経歴を持つ杉山に、これから目指す道を聞いた。

オリエンタルの人間として馬鹿にされる雰囲気を感じた

橋本総業HD男子チーム監督の杉山記一は、テニス選手としてジュニア時代からエリートコースを歩んできた選手だ。高校テニスの名門、福岡県の柳川高校時代には1995年インターハイでシングルスベスト4、ダブルス優勝、団体優勝など活躍し、早稲田大学時代には、1999年にアジア学生選手権ダブルス準優勝、同年スペインで開催されたユニバーシアード大会では小野田倫久とのペアで銅メダルを獲得した。早稲田大学を卒業した2000年にプロに転向し、スペインのバルセロナを拠点にプロ活動をはじめた。

杉山記一監督

「日本にいてもグランドスラムに出られない」と考えてスペインへ飛び出して6年目に杉山は全豪オープンで予選決勝まで勝ち進んだ(写真提供:橋本総業ホールディングス株式会社)

――スペインのバルセロナに行ったのはなぜ?

「大学4年のときのユニバーシアード大会で運良く32年ぶりの銅メダルを日本に持って帰ってこれたことで、プロ転向後にミキプルーン(社名・三基商事)にスポンサーになっていただきました。僕は、グランドスラムに出場するためには国内でやっていても仕方がない、プロになったら海外を拠点に活動しようと考えていたので、ミキプルーンに2年間の必要経費を出していただいてスペインに行きました」

――2000年代はじめのスペインテニス界は、カルロス・モヤ、ファンカルロス・フェレーロ、ダビド・フェレール、そしてラファエル・ナダルなどトップ選手がたくさんいましたが、スペインの当時の印象は?

「スペインに渡った当初はスペイン語はほとんど話せませんでしたし、日本人選手も中国人選手も同じオリエンタルの人間として見られ、馬鹿にされる雰囲気は感じましたね」

――当時はまだ錦織圭選手が活躍する前ですね

「はい、日本の男子テニス選手で名が知られているのは世界46位まで行った松岡修造さんくらいでした。一方のスペインはトップ100に15人くらいいましたから。でも、日本に戻っても世界で戦えるようにはならないし、グランドスラムも行けないと思って、(ミキプルーンとの契約が終わった後も)貯金を崩したり、親にお金を借りたりしてスペインを拠点にチャレンジし続けました」

グランドスラム予選決勝まで行けたのは反骨精神だった

スパニッシュドリルなど独自の選手強化プログラムを持つスペインは、練習拠点として世界から注目を集め、当時の日本からも多くの選手がスペインに渡っていた。杉山はスペインに拠点を移した翌年の2001年には下部ツアーのスペインF14大会(賞金総額1万ドル)でダブルス優勝、2003年ルーマニアF7大会(賞金総額1万ドル)でシングルス準優勝を果たすなど、異国の地で着実に力をつけていった。そして2006年1月の全豪オープン予選で杉山は2回勝って予選決勝まで勝ち上がり、悲願のグランドスラム本戦出場まであと1歩のところまで進んだ。2006年8月、杉山はATP世界ランキングで自己最高位となる316位(シングルス)を記録した。

「当時の僕を支えていたのは反骨精神でした。僕が大学を卒業するとき、テニス部OBなど周囲の人からプロ転向を反対されたんです。早稲田大学のテニス部で主将を務めた人間がプロになって食えなかったらどうするんだ、と言われました。でも、僕は小さいころからプロになりたくて柳川に行って早稲田に行って世界を目指してきた。僕がずっとスペインで頑張って、グランドスラム予選の決勝まで行けたのは、あのときに周囲の意見を突っぱねてプロになったという経緯があったからです。中途半端では終われなかったんです」

杉山記一監督

「プロでは食えないという周囲の反対を押し切ってプロになったから、中途半端では止められなかったんです」

――スペインには何年いたのですか?

「6、7年いました。その後もスペイン人のコーチに見てもらっていたので僕がプロとして活動した10年はずっとスペインと関わっていました」

テニス界のリーディングカンパニーをもっと作りたい

2008年11月の全日本選手権を最後に現役生活を引退した杉山は、その翌春に母校の早稲田大学大学院に進学。スポーツ科学研究科でスポーツビジネスを学んだ。

杉山記一監督

「(橋本総業HDの)橋本社長は10年先のことをつねに考えて活動されているので、そのマインドを受け継いでスポーツビジネスを確立させていきたいです」

――選手を引退した後に大学院に進んだのはなぜ?

「現役時代から僕をサポートしてくれた橋本総業(現在の橋本総業HD)の橋本(政昭)社長の勧めです。僕はケガをきっかけに引退したんですけど、引退後は世界を目指せる選手を育てるチームを作ってマネジメントの仕事をしたいと考えていました。橋本社長にその話をしたら、大学院に行ってマネジメントや経営学をちゃんと勉強しなさいと言われました。それで早稲田の大学院に戻って研究室にこもって会計学やコーチング論、経営学、組織のマネジメント学など1日13時間くらい勉強して、テニス界やスポーツ界を支える仕組みを学びました」

――大学院卒業後は何を?

「大学院を修了して、自分の会社(Norikazu Sports Academy株式会社)を設立してスポーツ界の活性化や人材育成をする活動を行いました。また、橋本総業のプロテニスチームではマネジメントに携わってきました。1年目、2年目のころは橋本社長に毎日怒られていました。そんなので会社なんか経営できるわけないだろう、もういい加減にしろ、どれだけ甘いんだよ、と。でも、僕は結構逃げないので。そうやって怒られたときに、もっと成長しようと思って頑張るんですよ」

――持ち前の反骨精神ですね。杉山さんは今年42歳ですが、今後はどんな活動を?

「橋本総業HDのテニス事業は、いまや日本でもっとも多くのテニス選手を抱えるまでに成長しました。僕はいま、橋本総業HDの顧問ですけど、将来的には橋本総業HDみたいなテニス界のリーディングカンパニーをもっとたくさん作りたいです。企業がスポーツ選手を応援して、スポーツ選手が活躍して企業に恩返しする、というサイクルができてくれば、欧米のようにスポーツ選手の社会的地位がもっと高くなってくると思います。そのためには、スポーツ選手ももっと勉強する必要があると思います。僕が早稲田大学大学院のスポーツ科学研究科で勉強していたとき、同級生に野球の桑田真澄さんがいました。他にもサッカーだったら中田英寿さん(立教大学客員教授)とか、世界で活躍した選手が引退後に勉強するというケースもあります。そういう人が多くなればスポーツ業界も変わってくると思いますが、スポーツ選手全体から考えたら比率がすごく低い。橋本総業HDの若い選手たちには、ちゃんと勉強して人としても価値を高めていくように話しています」

「プロでは食えない」と言った周囲を見返したい気持ちを原動力に、プロとして10年間戦ってきた。そして現役引退後のセカンドステージで、さらなる高みを目指している。「日本のテニス界、スポーツ界をもっと飛躍させたい」と語るプロテニスプレーヤー杉山記一の反骨精神はまだまだ健在だ。


杉山記一監督

杉山記一(すぎやま・のりかず)

1977年生まれ。香川県出身。179cm、77kg。1999年ユニバーシアード複銅メダル。早稲田大学卒業後2001年プロ転向。2006年全豪オープン単予選決勝進出、日本ランキング3位(ATP)。2008年現役引退後、早稲田大学大学院でスポーツビジネスを研究。橋本総業HD男子テニスチーム監督。


杉山記一監督の愛用ラケット

ヨネックス「EZONE100」

「パワーのある打球が打てるし、やわらかい打球感も感じられる。とてもバランスのいいラケットです」(杉山)

杉山記一監督の愛用ラケット

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岡田洋介
2020.08.07 17:00 投稿者:
岡田洋介
1968年、群馬県生まれ。出版社でスポーツ誌の編集職を経て独立。 スポーツライターとしてテニスのグランドスラム大会等の取材活動を行うほか、ゴルフ誌やランニング誌等に寄稿する。 2005年にテニスレッスン専門の動画配信サイト『テニスストリームTV(www.tennisstream.tv)』を立ち上げ、 テニス愛好者に役立つ上達情報を配信している。趣味の百名山登山は現在20座制覇! 【編集協力】『配球とコンビネーションで勝つテニスダブルス』(学研プラス)、『白木式コアトレ ベーシックメソッド』(学研プラス)

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